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立ちコラム

2024.03.16 葬儀 葬儀の歴史

古代から人が亡くなると、単に死体を遺棄するのでなく「葬る」といった行為がみられたといいます。「葬る」とは、意味として死体を墓所に埋めることであり、多くは土葬されていました。現在日本で主流(約99%)となっている火葬は、仏教の伝来時(6~7世紀)に伝わったとされています。

ただ実際は、庶民としてはどの程度、葬られていたのでしょうか。死者が出ると専用の場所に捨てられていたとの記録もあります。それは、火葬に多くの手間や経費がかかってしまい、とうてい庶民の経済力では賄えなかったのではないかと容易に想像ができます。土葬であっても、穴を掘ることにかなりの労力、時間を割いたに違いなく、埋葬にまでは及ばなかったことと考えられます。

「九相図(くそうず)」といって、死体が腐乱していく様子が描かれた絵画が数種残っています。死体が風雨にさらされ腐敗していき途中、獣に食われながらも白骨化していったり、風化したりするまでの経過が九つの場面にわけて描かれています。

 文献に残っている古い葬儀の記録としては、『古事記』に天若日子(アメノワカヒコ)の葬りの様子がみられ、そこには葬儀に従事する役割の名称がいくつか確認することができ、また、少し下って『日本書紀』においても、それらが見いだされます。「キサリモチ」(古事記:「岐佐理持」、日本書紀:「持傾頭者」)が旗を持つ役、「ミケビト」(「御食人」)が死者に食事を供える役、「ウスメ」(「碓女」)が死者に供える食事に用いるための、米を搗く役であるとされています。

しかしこれらは、歴史書に記されるくらいの、当時のやんごとなき人々にまつわる記録であって、一般の無名の人々について触れられることはなく、彼らは日常の生活に追われてしまい親族の死体であっても葬りに、手間や時間を割けなかったのではないでしょうか。

民間においてはやむを得ず、埋葬ではなく死体遺棄というかたちがとられ、意図せずとも、また宗教上の理由でもなく、結果として風葬や鳥葬といった形式に至ったと考えられます。何らかの教義の上で、あえて自然に任せて腐敗させたり鳥獣に食わせたりしていたというよりは、仕方なく死者をどこかしこに寝かせ、なるようになるしかないことを見届けるだけで精いっぱいであったと想像できます。ただ、結果的に遺棄であるにしても、遺棄に至るプロセスはどうだったのでしょうか。葬送ジャーナリストである碑文谷創氏によると、古代において人々は、死者を丁重に扱いまた、食事を供すなど死者を生きている者と同様に扱っていたと述べています*。

*碑文谷創『改訂葬儀概論』(表現文化社、2003年。)

「嬪(もがり)」と呼ばれる習俗がありました。死者が出ると、住居とは別に仮小屋を建てそこに寝かせ、一定期間、生者は死者とともに暮らしたとされています。これは風葬から埋葬へ至る過渡期にみられるといいます*。

*藤井正雄監修『葬儀大事典』(鎌倉新書、1980年。)

ここでは、二重の感情が併存していました。死をおそろしいもの、気色の悪いものとして忌避する感情により、また神道に由来する、いわゆる「穢れ」の思想もあり、日常の生活の場から隔離はしました。しかし、親族として愛しい者を放ってはおけなく、決して野晒しにするのではなく、少なくとも雨風を防げるようにしました。亡くなってはいても、生前のごとく、飲食物が提供されていました。この相反する、二重の感情の併存は現代においても、普通にみられることと考えられます。嬪はしかし、上述のようにごく一部の、上流の階級に限られていたであろうことは容易に想像ができます。

中世には天皇家に倣いながら、貴族が貴族間で家の格式を競うかのような、盛大な葬儀が催され始めましたが、もちろんその他の階級には難しかったことと考えられます。やがて、経済が発達するにつれ、他の階層が台頭してはそれに伴い、貴族に匹敵する富をもつようになり、上流層のまねができるようになっていきました。そして、弔いの行為にも反映されることとなり、結果的に死体を遺棄するのではなく、埋葬することが行われるようになっていき、また余裕のある者は埋葬に終始せず、埋葬に伴う儀礼を必要としていきました。それには当然、僧侶の存在が欠かせないものとなっていました。おそらく僧侶に期待されていたのは、わりと早い段階から、葬送の主な担い手としての役割であったのではないでしょうか。

鎌倉期には武士階級が、そして江戸期には商人が有力者として台頭しはじめ、そのなかでも特に富裕層は先祖供養のために、現在でいう「仏壇」としての、寺院を構えるようになっていきました。肉親や先祖の供養のために、極楽などの浄土をイメージした、厳かな内装が本堂には要求されました。そして礼拝の対象として、儒教から「位牌」の習慣が取り入れられるようになりました。

民間の寺院が次々と誕生し始め、その多くが富をもつ者の家の仏壇としての機能を果たす寺院でした。そこにおいて実権を握ったのは多かれ少なかれ、僧侶であり、行事のほとんどは葬儀をはじめとして、亡くなった人間を対象とした、回忌法要や先祖供養などの法事が主な事業でした。

寺院の多くが、最初から死者を弔うための場所、また同時に遺族を慰めるための場所でした。先祖供養に先立つ葬儀を、僧侶が主宰することにもつながり、日本仏教においては僧侶が途中から葬儀に携わるようになったというよりはむしろ、最初からではなくとも、わりと早い段階から僧侶の存在が葬儀に必要とされ、僧侶のいちばんの役割は葬儀を担当することであったという捉え方は間違っていないでしょう。

「葬式仏教」という言葉があり、否定的に捉えられがちですが、本来恥ずかしがるものではなく、それがいかように捉えられるかは各僧侶個人のふるまい方、葬儀への向き合い方いかんに左右されるでしょう。

江戸期においては、寺院が増えすぎてしまったため、新たな寺院の建立が原則、禁止とされました。家によっては、その家の仏壇として寺院を建てたくても建てられなくなった代わりに、例えばもともと何らかの付き合いのあった寺院に多額の寄付をして、その寺の境内地に何かしらを建ててもらったり、その寺院の僧侶を懇ろに歓待したりしました。その見返りとしてその寺院において、その家が大々的に祭ってもらえるようになりました。

また、各寺院は幕府の管理下に置かれるようになりましたが、現在でいう役所の戸籍係の役割を寺院が担うようになりました。行政側が戸籍を把握するために、各家はいずれかの寺院に檀家として所属させられることになります。同時に、それはキリスト教弾圧の役割をも与えられていました。というのは、各家にとっては、自分たちは「キリシタン」ではなく、○○寺の檀家であるという証明を寺院側から与えられることで、キリスト教徒ではないことの証となったからです。寺院側は特に布教をしなくとも、自動的に、信者を得られることとなり、信者からの献金や物品の寄付、何かしらの手伝いによって、寺院として存続が可能となりました。これが、現在の「檀家制度」の起源の一端として考えることができます。

葬儀そのものに話を戻しますが、禅宗において、「清規(しんぎ)」とよばれる、禅宗僧侶の集団生活上の規則を定めた、一連の文献類が中国より伝えられ、そのなかには住職(「住持(じゅうじ)」といいます)が亡くなったときの作法、また「亡僧」とよばれる一般の僧侶(住職資格をもたない)が亡くなったときの作法、それぞれが定められています。そのうち後者の、「亡僧葬法」が基となって、僧侶以外の一般の民衆の葬儀作法が確立されていきました。

現在の仏式葬儀の、意義の根幹は、「没後作僧(もつごさそう)」といって、僧侶でない一般の人々が、本当は出家して僧侶になって修行に励みたかったのにもかかわらず、生前には余裕がなく、または縁がなかったために、本格的に仏教の修行ができなく、それでも、亡くなってからであってもきちんと修行ができるようにと、近親者たちが死者のひげや髪を剃り、白装束を着せ、仏弟子としての名前である「戒名」を僧侶から授けてもらい、数珠をもたせて僧侶の姿にさせることで、僧侶そのものに変身させる、すなわち「出家」させるということに他なりません。それはやがて禅宗の枠を超え、多くの宗派においても取り入れられることとなりました。

もともと葬儀は日数を要し、同時に、例えば遺体を納めるための容器としての「棺」の用意、白装束の作成、遺体の移動、土葬のための穴の掘削といった、さまざまな作業が必要となり、家の規模によっては身内だけでは手に負えないために近隣の者、地域によっては村を挙げて、多くの人員によって、ようやくひとつの葬儀が成立したのです。

白装束の作成は、娘やその家の嫁が主体となった女性陣によって、遺体の移動や土葬のための穴の用意は、息子や婿を中心とした男性陣によってと決められていました。もちろん葬儀に携わる人々の食事の準備はもっぱら、女性によってでした。地域によっては、遺族は故人の付き添いに専念させてもらえ、近隣ないし村の者によって葬儀の準備、施行がなされたといいます。

「村八分」という言葉がありますが、その文字が示すように、その村において他家との交流を禁じられた家であっても、火事と葬式のみ(十のうち八つの事柄において、その家とのかかわりが禁じられ、残りの二にあたります)は助けてもらえることとなっていたそうです。

戦後、都市部に人口が集中し、核家族化がすすむなかで、都市部においては老人など葬儀を知る人間が不在となり、一方、田舎においては、葬儀を知っている人間がいても、それのために動ける、若手の世代が不在となっていきました。都市部に限らず日本全体として、サラリーマンをはじめとした、家の外に働きに出る者が多く現れ始め、隣家の葬儀とはいえ手伝うことが困難となっていき、そこで登場し始めたのが、葬儀の施行を専門とする「葬儀社」でした。

もともとは、葬儀社の多くは葬具を扱うメーカーであり、またそれらを葬家にレンタルするという業者であったのですが、やがて、葬儀全般を取り仕切る専門業者へと進化していきました。また料理は料理屋に、棺は木工業者に依頼、といった業務の外注化が進むこととなり、庶民の葬儀にかかわる身体的な負担は、大幅に減少していきました。

他方で、もともと日常用の花を店頭で売っていた花屋ですが、業務拡大によって、葬儀社に出入りする業者が登場し、業者の会社規模によっては花を多く扱える強みを生かし、葬儀社そのものに業種替えした花屋も少なくありません。

また葬儀が済んでからの、遺骨や魂の安住の地として、「墓」や「仏壇」があり、それぞれを専門にあつかう業者も多く出現しはじめました。墓は、採石業者が主に、仏壇はもともと寺院における仏具をはじめとした調度品を扱っていた、いわゆる仏具屋が一般家庭をターゲットとして販売しはじめました。写真屋は遺影の制作に欠かせない存在でした。葬列を組んで、葬儀場から埋葬場所まで練り歩く、いわゆる「野辺送り」の光景は、霊柩車の登場に代わって消滅していきました。

葬儀は、その家の格式や生活レベルを、また社葬であれば会社の規模ないし業績を誇示する、絶好の機会となっていきました。故人が例えば著名人であれば、それだけの弔問客が集まり、それに合わせた広さの会場、またそれなりの大きさの祭壇の設置が欠かせませんでした。葬送儀礼を司る導師が複数人であることも、名家では決して珍しくなく、「伴僧」や「脇僧」と呼ばれるお付きの僧侶も導師の数に付随して用意されていました。

昔の家、いわゆる「旧家」において、特に田舎において、それなりに広い家屋が建てられていたそうですが、葬儀のための広さが必要とされていたからだそうです。もちろん婚礼のためでもあったかもしれません。自宅内には葬儀会場の設営を前提として、客間がいくつもあり、また出棺において、玄関を通すことを避けるために、縁側の広さにも余裕が与えられていました。

前述したように、特に戦後においては都市部への人口集中が顕著になり、都市における過密化に拍車がかかっていきました。戸建てではない、集合住宅も増えていきます。ここで登場する問題が、どこに遺体を安置するか、すなわちどこで葬式を行うかということです。田舎の旧家とは対照的な、コンパクトな住居が、戸建てか集合かにかかわらず、当たり前になっていきます。人口増加による、土地代の高騰が原因ではないでしょうか。そのような潮流において、葬儀会館の建設が要求されていくことになります。

寺院側においては、明治期以降、僧侶の世俗化が一気に高まりました。生涯独身が当然とみられていた僧侶たちが嫁をもらい、家族をもつようになり、寺院の庫裡は必然的に家族の生活スペースとなっていきます。当然、寺院での葬儀が敬遠されていくこととなり、それだけ、民間による葬儀会館の建設の機運が高まったであろうことは言うまでもありません。

やがて、一般的に「死」というものが日常生活から切り離されていきます。自宅死亡に代わって、病院での死亡が大半となっていきます。また、葬儀の専門家であったところの僧侶は、その役目を葬儀社に託していく結果となりました。消費者は葬儀について無知になっていく一方で、一部の心ない葬儀社はそこにつけこみ、取れるだけお金を請求していくというスタイルを持ち始め、葬儀価格の不透明性が後年、問題として取り上げられるようになりました。

この問題に目をつけた、ある葬儀社は「明朗会計」をうたい、やがて消費者からの信頼を得るようになり、企業として急激に成長し、この企業のビジネスモデルが現在の葬儀サービスの標準の一例となっていることは確かでしょう。多くの葬儀社が自社のサービスの価格表の見直しを行う必要に迫られたであろうことが容易に想像できます。価格崩壊の窮地に立たされ、老舗葬儀社は自社の強みとは何か、模索していくことになります。また明朗会計による、価格の相場の露呈により、他業種による葬儀業界への新規参入が容易となっていき、兎にも角にも葬儀社が増えている昨今、豊富な会館や葬儀社と一見して分かる看板が巷間をにぎわせています。

いつの頃からか、「家族葬」なる用語が登場し始めます。この用語自体には厳密な定義はありませんが、多くの人々が経費を抑えられることのできる葬儀スタイルとしてイメージしているのではないでしょうか。家族しか呼んでいけないというわけではありません。あくまでも、家族が中心になって葬儀を行い、葬儀社はそれのお手伝いをさせてもらうとの認識が根底にあると考えられます。

旧来の葬儀では、家族はもちろんのこと、隣組をはじめとした近所の人、職場や学校関係、故人の知人友人等、多くの弔問者が参列することがいたって普通でした。来てくれた弔問客には当然、お礼が必要であると、料理が振舞われたり、持たせて帰ってもらう「返礼品」が用意されたりと、葬儀がお金がかかることの代表例であったことでしょう。

葬儀の規模によっては、遺族が弔問者を把握しきれず、故人の知人ではないのに、知人を装っては、その地域の葬儀には決まっていつも登場してくる、葬儀社が顔を覚えてしまう、商品券等の返礼品目当ての人物が一定数存在することが、ある地方においては、葬儀の付き物として語られているほどです。その人物が警戒されないだけの、多様な人々の集まりが葬儀にはみられたことが、葬儀の特徴でもあったのです。人々が交流を行うことのできる、一種のコミュニティとしての側面を葬儀が有していたことは確かでしょう。

家族葬を始めとした、小規模な葬儀の普及に伴ってか、葬儀社から独立した、湯灌および納棺の業務を専門とする、いわゆる「納棺師」を擁する会社が、多数登場することとなりました。納棺を専門とする業者が多数登場してきた背景というのは、葬儀自体は簡素にしていきながら、例えば祭壇費用を安く抑えたり、料理は弁当にして会食の場は設けず、参列者に持ち帰ってもらったりしていき、経費を抑えていくなかで、いわゆる「浮いたお金」を葬儀以外に回すのではなく、そのお金を故人に使おうという機運が高まってきたということが挙げられます。

それまでの葬儀については、故人が忘れられがちとなり、「故人不在の葬儀」と揶揄した見方があったとされています。故人のために使うお金といえば必然的に、モノであれば、例えば棺であれば「並の」棺ではなく、高価な棺にしようと、その分加算される費用であり、また故人に対して何かしてあげたいということになれば、風呂に生前ろくに入れなかったからと体を洗ってあげたり、生前に気に入っていた着物や洋服を着せてあげたりしたいという気持ちがあって、それら遺族の要望に答えるのが、上述の納棺を専門とする人々であり、彼ら納棺師の、湯灌をはじめとした一連の仕事が要求されることとなり、彼らに支払われるべき料金となります。

実際に持ち運び可能な浴槽を使用して、体を洗う「湯灌(ゆかん)」と、濡らしたタオルやアルコールで湿らせたペーパーを用いて、体を拭く「清拭(せいしき)」があります。地域や時代によっては「湯灌」という名称だけが残り、実際には清拭で済ませることもありますが、現在は湯灌といえば、浴槽を用いた方法に限定する向きもあります。湯灌や清拭を一くくりに、「清浄」・「清浄をする」という言葉の用法もあります。

納棺師らは「含み綿」や「綿詰め」といって、遺体の体液が口腔や鼻腔を通じて、排出されてこないようにと、コットンを口や鼻に詰めていくのですが、その作業に付随して技術ある者は故人の開いた口を必ずといっていいほど、閉じることができ、また自然な口元を形成することに長けています。得意ではなくとも、作業後に口が閉じていることを必須とする納棺業者、または葬儀社によっては納棺業者にそれを要求している業者もあります。納棺師間の、技術の水準の差異は、含み綿の出来に尽きるとの見方もあります。

筆者の経験として、実際、故人の口を出来るだけ閉じてほしいと要望する葬家がほとんどです。納棺師としては、いわゆる口閉じの、技術の習得までに時間がかかることとなり、きっちりと閉じたとしても口元の見た目が不自然でないかどうかという観点も要求されるのです。納棺業者が増えていき、ある程度、仕事の内容や流れも固定化され、価格競争も難しくなってきました。そのような状況下、どれだけ、故人の尊厳に注意を払い、遺族に適切に寄り添えるかが、問われていくこととなっていくでしょう。

かつて、「死」というものが、タブー視され、死について語ることが「縁起でもない」と憚られた時期が日本国内においては長く続いたようですが、近年はかなり様変わりしているように思います。特に若い方の価値観に変化がみられるようです。「遺体が怖いとは思わない」とはよく聞かれるようになり実際に、葬儀社や納棺業者において、若年層の就職が珍しくなくなっているようです。

また、「穢れ」の意識もかなり薄まってきているように感じられます。仏教においては元々、死を穢れであるとは考えないのですが、日本は長い歴史の中で、仏教伝来以前から儒教や神道の感覚が人々の根底に根差しており、異質の仏教とは衝突と融合を繰り返してきたなかで、それぞれの考え方が併存することになりますが、地域によってはどれかが独占的になったことで、仏教以外の考え方が地域によっては支配的となりました。そのため、清めの行為において塩を多用しました。仏教寺院においてすら例えば、本堂で葬儀が行われる際に「穢れ」を恐れて内陣に白幕が張られたりすることも珍しくありませんでした。また、逆さびょうぶなど「逆さ事」のアイディアが生まれては、あれもこれもと事柄が増えていったことは、葬祭文化の醸成に一端を担ったことでしょう。

今後も、さまざまなことが起きていくなかで、葬儀形式も変容を遂げていくに違いありません。ただ、変わるべきでないこととは、故人と遺族が向き合える場所であり、残された方々が生命の尊厳を見つめなおす機会であることは言うまでもありません。

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