お役立ちコラム
飛鳥~奈良期
【南都六宗】
飛鳥時代に朝鮮半島から仏教が伝えられ、また奈良時代は日本から中国への留学僧たちにより、大陸の仏教が日本へ伝えられました。
この時代は学問仏教で「南都六宗」と呼ばれ、それぞれ、(1)法相宗・(2)俱舎宗・(3)・成実宗・(4)三論宗・(5)華厳宗・(6)律宗となります。残念ながら当時の仏教は、貴族のためであったり、仏教自体を研究する学問仏教であったりしたため、民衆にはあまり関係がないものでした。
「南都六宗」のうち華厳宗は、聖武天皇の東大寺大仏造成や国分寺建立により、国家統一が図られました。華厳思想とは、真理の世界と現実の世界との一致を求め、「一多(一か多かという二元論)無礙(遮る事柄、すなわち区別がない)・一即一切・一切即一」を強調するもので、各国(現在でいう県のような各行政区域)の統制に利用されました。民衆は大仏建立に利用されたのですが、現在では想像できないほどの信心深さが、原動力であったのでしょうか。
また、律宗の「律」とは「戒律」の語のうちの律(戒と律とは別の概念を指す)を指し、鑑真(がんじん)和尚(井上靖『天平の甍』のモデル)によって、大陸より伝えられました。律とは、初期の仏教において仏教の僧が守るべき約250個の生活上のルールですが、日本の僧団に根付くことはなく、学問仏教の一分野に過ぎませんでした。
平安期 【天台宗】【真言宗】
現在の各宗派の源流となる最澄(伝教大師)の「天台宗」、また空海(弘法大師)による「真言宗」が、日本へ招来されました。両氏は遣唐使とともに同時期に唐に渡り、唐代仏教を学びました。両宗は「密教」(秘密仏教の略)を重視し、天台宗が「台密」(天台の密教)、真言宗が「東密」(京都の東寺の密教)と呼ばれています。
最澄の天台宗は、様々な教えを内包しています。最澄は唐で、天台(中国天台山の法華教学)・戒・禅(現在の臨済宗や曹洞宗とは系譜を異にしています)・密教を学んでいます。(最澄の密教は不完全で、後述の空海から多くを学んでいます)これにより天台宗の比叡山は総合仏教寺院で、ここから鎌倉新仏教の開祖たちを輩出することになります。
天台宗の本尊は、基本は釈迦如来ですが、各末寺では阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観世音菩薩、不動明王等が本尊として祀られています。これは最重要経典の『法華経』に由来し、釈迦如来が人々に教えを説くにあたって、時と場に応じて、さまざまな仏や菩薩それぞれの姿に変えたという教えに基づいています。
天台宗の教義は「円教(えんぎょう)」ともいい、誰もが区別なく平等に成仏できる円満な教えになります。前述の南都六宗では、限られた人々しか成仏できないと説いていたため、最澄は南都六宗の僧達と仏教教義について、たびたび論争を行っていました。
空海の真言宗は、インド・中国直伝の正統な密教です。空海は、大日如来から始まる「血脈(けちみゃく)」と呼ばれる系譜に名を連ねる密教の正規の伝法者でもあり、天台宗の密教に比べてより密教的であるとされています。本尊は大日如来で、特徴として宗派名が示すように、真言(マントラ、または陀羅尼)を多用しています。
真言宗の特徴の一つに、「即身成仏」が挙げられ、この身このままで悟りを開いて仏となることです。密教で生命は、「三密」と呼ばれる「身(しん)」・「口(く)」・「意(い)」で構成されています。身が体のはたらき、口が口のはたらき、すなわち語ること、そして意が心のはたらきを示し、これらが合わさって人となります。
「即身成仏」を具体的に述べると、身で印契(いんげい。または単に「印(いん)」)を結び(両手をつかって印を結ぶ)、口で真言を唱えて、そこに心(意識)が落ち着いた三昧(インド語「サマーディ」)の状態時(ヨーガ「瑜伽」の一種)に、絶対者である大日如来と修行者自身とが一体として合一した時、「即身成仏」が完成します。この神秘性が、真言宗をして秘密の教え、すなわち「密教」たらしめています。
南都六宗の難解で高度な教学的仏教に比べ、真言宗の教えは人々を魅了し、大いに流行したことでしょう。また空海の密教は直伝で完成度も高く、最澄も教えを乞うたほどであるといいます。真言宗の主要経典は、『大日経』と『金剛頂経』です。
鎌倉期
前述の、最澄が開いた天台宗の比叡山には多くの修行者が集まり、そこから鎌倉新仏教の開祖たちが輩出されていきました。その理由は、最澄の天台宗は、円(法華)・密・禅・戒の、いわゆる「四宗兼学」の道場で、宗派の枠を超えた総合仏教のような特徴があり、修行者達は多様な教えを学ぶことができたためです。その結果、最澄の天台宗そのものを受け継いだ修行者もいれば、最澄の天台宗から取捨選択と発展により独自の宗派を築き始めた修行者もいて、後者は比叡山を下り独自の仏道を歩むこととなりました。彼らのうち、良忍は融通念仏宗、法然は浄土宗、法然の弟子でもある親鸞は浄土真宗、日蓮は日蓮宗、一遍は時宗、栄西や道元は禅宗を開きました。
以下、融通念仏宗から各宗派を概観していきます。
【融通念仏宗】
「聖応大師」良忍は、比叡山で不断念仏(念仏をし続ける修行)や天台の学問を修め、また密教を仁和寺の僧に教わったとされています。後に、比叡山を下り京都大原の地で修行に励み、『法華経』の読経や念仏に明け暮れる日々を送ったといいます。「融通念仏」とは、一人の念仏の効果が一切の人に「融通する」という教えとなります。
【浄土宗】
「円光大師」法然は、比叡山で天台教学、戒律、念仏を学び、特に念仏の修行に打ち込みました。その結果、念仏を広めていくことを決意し、比叡山を下り京都大谷に移り、誰しもが念仏によって等しく救われるとの教えを広めました。念仏によってのみとの意味から、「専修(せんじゅ)念仏」ともいわれ、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで阿弥陀如来に救われ、極楽浄土に往生することができると説きました。よって本尊は、阿弥陀如来となります。
総本山は知恩院であり、またいくつかの派に分かれ、それぞれの本山が併存しています。主要な経典として、「浄土三部経」すなわち『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』を重要視しています。
【浄土真宗】
「見真大師」親鸞は、法然の弟子のひとりです。最初は比叡山で修行をしていましたが、比叡山を下りて、専修念仏を説いていた法然に弟子入りしました。念仏によって救われるという点は浄土宗と変わりませんが、念仏の行為者自身の力によるものなのか(自力)、阿弥陀如来のはたらきによるものなのか(他力)という違いにおいて、親鸞は「絶対他力」を打ち出しました。
浄土真宗も浄土宗と同様で「浄土三部経」を用いています。そのうち『無量寿経』には、阿弥陀如来が如来となる前段階の、法蔵菩薩の時分において四十八個の誓願を立て、そのなかに「人々を救わずにはいられない」との誓願(第十八願)がかかれており、この誓願(「本願」と呼ぶ)に対して疑うことなく信頼し、また感謝の心も併せ持つことが「他力」の念仏であるといっています。
浄土真宗の特徴として、僧侶の肉食妻帯が挙げられます。肉や魚を食し、嫁を娶ることで、つまり家庭を持つことです。現在日本において、いかなる仏教宗派であっても肉食妻帯が普通ですが、当時は僧侶の肉食妻帯が禁じられていました。また浄土真宗は、僧の有髪(うはつ)が特徴です。基本的に仏教は、出家に際し剃髪が必須であり、浄土真宗も出家に際し一度は剃髪しますが、以後は剃髪することがあまりありません。これは、親鸞の「非僧非俗」なる宣言にもよるのでしょう。
他に浄土真宗は、迷信の類を一切否定し、占いや祟りといった事柄も排除し、お守りやお札を好まないとされています。また、阿弥陀仏の教えを守りながら出家せず生きていくことを誓う際に授かる名前となりますので、「戒名」と言わず「法名」と呼びます。
浄土真宗には、「本願寺派」(西本願寺)・「真宗大谷派」(東本願寺)を始め10の教団が併存し、真宗十派と呼ばれています。
【日蓮宗】
「立正大師」日蓮は、比叡山を始め、園城寺、四天王寺、奈良寺院など、各地において修行を重ねました。その結果、多くの経典のなかで『法華経』のみが真の釈迦の教え、仏教そのものと確信に至り、自ら標榜する「日蓮宗」以外の宗派は、『法華経』に従うべきであることを強調しました。
また日蓮宗から見る『法華経』の「如来寿量品」は、釈迦が実は亡くなっておらず、永遠に過去から未来に至るまで生き続けており(「久遠実成(くおんじつじょう)」という)、大衆に対して常に説法をし続けていると喧伝しています。
本尊は釈迦如来で、お題目(浄土系でいう念仏ではない)は「南無妙法蓮華経」と唱えます。総本山は山梨県、「身延山久遠寺」で、日蓮系は分派も多く、新興宗教の多くも日蓮系です。
日蓮宗の布教には特徴があり、徹底的に他宗派の信者を攻撃しては屈服させ、日蓮の教えに帰依させる「折伏(しゃくぶく)」と呼ばれるものがあります。この「折伏」には極端な事例もあり、かつては日蓮宗系の信者三人が他宗派の檀家に押し掛け、家人を囲んでは説法との名目で居座り続け、また当家の仏壇を破壊するなどの行為もみられたそうです。
【時宗】
「証誠(しょうじょう)大師」こと一遍は、「踊念仏」で知られ、時宗の開祖です。始めは大宰府で浄土宗を学びましたが、父親の死によって一度は還俗(僧を辞める)しました。縁あって再出家し、比叡山や善光寺で修行しました。浄土系と同様に、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏によって極楽浄土へ往生できるという教義を広めていきますが、一遍はお札「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれたものを配り、最終的に総ての人々にこの安心のお札を配ることを念願し、布教しました。
一遍自身は一宗派を開くという意図はなく、弟子も持たなかったとされていますが、一遍を慕う人々が後をついて廻ったことが、一宗派の成立につながり、また「踊念仏」の起源となったとも考えられています。
【禅宗系】
達磨宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗
鎌倉時代の禅宗といえば、栄西の臨済宗と道元の曹洞宗が挙げられますが、当時は「達磨宗」の能忍が栄西に先立って注目されていました。この能忍は、「無師独悟」といって、特定の師匠は無く、自ら悟ったといわれています。豊富な仏教典籍を渉猟し独学で禅を学び、一人で禅の教えを組み立て、教義を広めていきました。
達磨宗は、「師資相承(ししそうじょう)」を基本とする禅宗にとっては異端であり、誰から法を受け継いだかを重視する禅宗にとって、能忍は師匠が存在しないことで非難を受けました。のちに弟子の練中・勝辨の二人に、自身の悟りの内容を、偈として著した書面を持たせて中国の育王山に送り、拙庵徳光(せつあんとっこう)から印可(禅宗において悟りを開いたとの証明)を得ることができ、禅宗として認められることとなりました。
達磨宗に対して栄西(えいさい/ようさい)は、最初は批判的な態度をとっていました。栄西は中国(当時は宋)から正統な禅を伝えていると自負しているなか、達磨宗は仏教界で危険視されており、それに伴い栄西の臨済禅までもが禁じられてしまったからのようです。のちに両者は和解し、能忍は栄西と共に布教に出向くこととなりました。
栄西は、最初は天台教学を学び、やがて比叡山に入山し、授戒(僧となるための手続き)を受けました。それから入宋(にっそう。宋の国に赴くこと)し、天台山において禅を知ることとなります。一度、日本に帰国したものの、再び入宋を計画し、インドへの渡航も志したようです。しばらく九州で入宋の機会を待ち続け、ようやく入宋を果たしてから、インド行きは叶わなかったものの、臨済宗黄龍派の禅を受け継いだことが大きな転機となりました。
栄西は帰国後、まず九州において禅の教えを広め、後に都に移りましたが、布教のため積極的に権力に近づいていきました。栄西の行動は、露骨で悪評を招くほどでしたが、次第に認められ臨済宗が公認されるようになりました。
栄西以後の臨済宗は、渡来僧や留学僧の活躍で隆盛を極め、また武家の保護によって、京や鎌倉の「五山十刹」(幕府管理下の寺)を中心に栄えました。一方で、五山には属さず朝廷の庇護を受けた、「応灯関」(宗峰妙超の師である南浦紹明の国師号「大応国師」・大徳寺開山の宗峰妙超の国師号「大灯国師」・妙心寺開山の「関山慧玄」、それぞれから一字ずつ拾ってこのように呼び習わされています)と通称される臨済禅の一派は「山隣派」として栄え、地道に活動を続けて教団勢力を拡大し、また江戸中期の白隠慧鶴の公案禅大成による復興(日本臨済宗中興の祖)もあり、この系統が今日まで続く臨済宗となります。
この他の臨済宗として、江戸初期(中国では明末清初の動乱期)に隠元隆琦率いる「臨済正宗(しょうしゅう)」を名乗る一団が渡日しました。この点については後述します。
曹洞宗を伝えた道元も、比叡山で仏教を学んでいました。後に、栄西の弟子である建仁寺の明全とともに入宋を果たしました。そして中国の天童山において、師の如浄(にょじょう)と出会い、彼によって道元は「身心脱落(しんじんだつらく)」の境地を経験することになります。これは、精神も身体も囚われを離れ、自由な境地に達することを指します。師の如浄は、その著『宝慶記』において、「参禅(禅の修行を行うこと)は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺(懺悔の儀礼を行うこと)・看経(お経を読むこと、またはお経の黙読)を用いず、只管打坐するのみ」と述べています。
「只管打坐(しかんたざ)」とは、曹洞宗の宗風を表す一語であり、ただひたすら坐禅に打ち込むことを意味します。道元は日本に帰国後、最初は京都において布教に努め、後に越前に移り、永平寺を開きました。
一般的に曹洞宗は「黙照禅」と呼ばれています。一方、臨済宗は「公案禅」とか「看話(かんな/かんわ)禅」と呼ばれており、看話とは「話頭(わとう)」を看ずること、すなわち「公案」に向き合うことであり、公案でもって修行することになっています。臨済宗の修行者、「雲水」は、師家(しけ)とよばれる指導者から、禅問答である公案を与えられ、その答えを追求していく修行により、悟りを求めていきます。
臨済宗と曹洞宗は、共に「禅宗」として日本仏教界において一定の地位を得ることとなりました。臨済宗は十四の派に分かれ、各本山を有しています。一方、曹洞宗は宗派として単一教団ではありますが、永平寺派と総持寺派の二系統に分けられることもあります。この他、鎌倉・南北朝期に京都、鎌倉の五山禅林にも影響を与えた「宏智(わんし)派」や、江戸初期の「寿昌派」も存在していましたが、それぞれ道元の伝える法系とは異なっていた為、やがて道元系曹洞宗に吸収されていきました。
本尊は、臨済宗、曹洞宗両宗とも基本的に釈迦牟尼仏となりますが、他宗派の無住寺院(住職が不在の寺)や荒廃寺院を、本尊はそのままにして復興、転宗ないし転派したため、阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王など、多様となっています。
禅宗は、坐禅を基本とするために「所依の経典」を設けませんが、実際に重用されている経典として「般若心経」や「大悲呪(大悲心陀羅尼)」、「法華経」(その中の観音経)が挙げられます。また臨済宗では「白隠禅師坐禅和讃」、曹洞宗では『正法眼蔵』や『修証義』を聖典としています。
また禅宗には、明治初期以前は臨済宗の一派で「臨済正宗」と自称していた教団があります。現在の「黄檗宗」です。江戸時代は「臨済宗黄檗派」と称しており、鎌倉・室町期から続く、臨済宗各派の宋朝禅と基本的教義は同じですが、中国明末の禅ということもあり相違点が多く、特に黄檗山開創時に臨済宗妙心寺派から批判が度重なったこともあり、明治以後「黄檗宗」として独立の道を歩むこととなりました。
黄檗宗の特徴として、明末仏教の禅と浄土思想が合わさった「禅浄双修」があり、施餓鬼会法要などでは「印」を結び「真言」を唱えるなど、密教的な要素も多く含んでいました。このことが、従来の禅宗教団、特に「純禅」を標榜する立場からは、「雑然としている」とか「堕落している」と見なされたりしました。この他に戒律を重視し、授戒会が盛んに行われました。
黄檗宗の経典は、日常的に使用するものは臨済宗や曹洞宗と同じです。但し、同じ経典で同じ文字であったとしても、読誦で読み方が異なっています。一般的に黄檗宗の音のことを「唐韻」や「明音」と呼びますが、これは黄檗宗伝来時の、福建省を中心とした大陸南方地域の読み方「閩語(ビンゴ)」になります。「南無阿弥陀仏」は「ナムオミトフ」、「摩訶般若波羅蜜多」は「モホポゼポロミト」といった具合です。なお前述した「禅浄双修」の傾向が顕著であるため、過去には『阿弥陀経』を常用経典としていたこともあります。
現在の日本は、多くの人々の根底に神道の存在がありますが、日本人の思想内に歴然とした仏教の教えが根付き、仏教を基盤としている新興宗教も多く存在していることから、日本は仏教国と言うことができます。また、葬儀の多くが仏式によって執り行われている現状があり、新興宗教を信仰する家であっても葬儀は仏式で行う例は少なくありません。
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